一 級 建 築 士 事 務 所
石 山 美 法 建 築 設 計 ア ト リ エ
Yoshinori Ishiyama architectural design atelier
Inheritance, toward the core. Across generations.
道後の大改修・続
「ちいさな芸術を成立させるもの」
■普通の生活者と建築を考える
建築家が、自らの美意識を深く理解する施主と、特異な空間やディテールを突き詰めることには価値がある。私自身、そのような仕事を望まないわけではない。しかし、建築の芸術性を享受するために、生活者が特別な感性や潤沢な資本を備えていなければならないとすれば、建築は誰のものなのだろうか。
多くの人は、住宅市場の中で提示されてきた製品や間取りを手がかりに、これからの暮らしを考える。それは本人の感性の不足ではなく、これまでの経験から形成された住まいの捉え方である。建築家がその現在地を軽んじ、独自の表現への理解を一方的に求めても、暮らしに「美」が根づくとは限らない。
私は、生活者が受け入れられる範囲を慎重に読み取り、その範囲の内側から、まだ経験したことのない空間的な豊かさへ少し踏み出せる条件を探ってきた。それは建築家の創造性を縮小することではない。現実の暮らしの中で、その創造性を成立させる、つまり普通の生活者が合意する極限の「空間美」を見極めるための設計である。
■決めないことを、成立させる
「道後の大改修・続」は、以前に全面改修した木造の母屋に隣接して、母親の住まいを設ける計画である。新しい生活を始める人が、それまで使ってきた家具や物を持ち続けたいと望む一方、家族には、将来の整理や暮らしの変化まで見通しておきたいという思いが強くあった。したがって私は、そのどちらかを建築によって正解と決めることを避けた。
生活に欠かせない機能は東側へ集約し、動かしにくい水回りと必要な構造壁を整理する。気積を豊かに、動線を短くする「大きく狭く」という考え方である。ここで捉える狭さとは後退ではなく整理することに尽きる。必然的に、西側には建物全体の約四割に相当する空間が残ったわけだ。用途を決めず、必要なら物を受け止め、後に間仕切って室をつくることも、再び一つの空間として使うことも出来るだろう。
これは余った面積に名前を与えたわけではない。敷地の大きさや、生活、将来の変化と、限られた予算を同時に引き受け、使い方を確定しない状態そのものに価値を見いだしたい、そう考えたのだ。母屋との内部接続は法制度上の制約によって実現できなかったが、外部の経路を介して両者の関係を保ち、新設棟には居住領域とこの空間のあいだに明確な境界を設けた。母の住まいを守りながら、家族の関係を固定しないためである。
この空間は、単に自由な空間ではない。架構の比例、屋根の勾配、光の入り方、床の高さ、外部との連続性を吟味し、用途が決まらなくても、それ自体が簡素ながら美しくあることに執着した。
■仕上げをめぐって生まれたこと
この大広間について、私は当初、必ずしも仕上げを加える必要はないと考えていた。必要な法的性能を満たした上で、架構と空間の構成によって美しさは既に成立している。用途を固定しない場所でもあり、追加の費用をかけずに置いておくことは合理的な選択であると判断していた。施主も、予算の事情を理解し、それを受け入れていた。
ところが、実際に立ち上がった空間を見るたびに、施主自身の考えが変わっていったのだ。「何らかの仕上げができないだろうか」。
「そりゃこれだけの空間、貼らないとカッコがつかんでしょ」、クロス職人は応えた。追加工事を実施後、費用を支払いたいと申し出ても、職人は受け取らなかった。施主はその対応に深く感激していた。
ここで重要なのは、クロスが無償で施工されたということではない。空間を見て、施主は当初の判断を更新し、職人も自分の感覚でその空間に応答した。一般的なクロスという素材で、空間の骨格が持つ美しさを損なわずに整えることができた。「カッコはついた」わけだ。素材の価格と、空間の価値は同じではない。
本工事は分離発注とし、施主が専門工事業者それぞれと直接契約した。私は施工前に各職人や担当者を施主へ紹介し、誰が何を担うのかを互いに知ってもらうことを大切にした。職人は施主の顔も声も知っていた。したがって、仕上げの相談は、匿名の発注者からの追加工事の依頼ではない。互いに相手を知る関係の中で交わされた、一つの相談だった。
空間への判断と、相手への思いが重なったこの出来事に私は奉仕の心を感じた。
奉仕とは無償労働のことではない。正当な報酬が支払われる仕事の中にも、他者のためによりよくしようとする意思は存在する。その意思を手柄として語るのではなく、自発的に現れたこととして大切に捉えたい。
■見えない設計判断を引き受ける
この手の計画の難しさは、完成した建築を見ても、なかなか伝わらないだろう。簡素で、どこか当たり前にも見える空間である。しかし、確かに美しい。私は、その何気ない美しさを成立させるために、どれほどの思考と判断が必要なのかを考え続けてきた。
建築に特別な関心を持たない生活者にとって、住まいを判断する基準は、日常的に使い慣れた既製品や流通材にある。建築家が美しいと考える特注部材であっても、操作性、気密性、清掃性、補修性が劣り、費用まで大きく上回るなら、採用する理由は見つけにくい。
もっともな判断だと思う。つまり、生活者に近くないと意味がないわけだ。
では、既製品を使い、生活者が求める性能と価格を満たせば、それでよいのだろうか。それだけなら、建築家がそこにいる意味は何なのか。
私は、その先に踏み込みたい。
同じ性能と価格で、もう少し美しくできないか。既製品の納まりを変えればどうか。特注した方が合理的になる部分はないか。ある部分に費用をかけるなら、ほかのどこで合理化できるか。そして、それらの選択によって空間全体の美しさをどこまで高められるのか。
判断は一つで終わらない。一つを変えれば、別の条件が動く。そのたびに全体を見直すことになる。
さらに難しいのは、建築家が見いだしている美しさを、施主が初めから共有しているとは限らないことである。性能や価格は完成前にも比較できる。しかし、空間の美しさは、実際に立ち上がって初めて感じられることもある。
だからといって、完成するまで判断を先送りすることはできない。まだ共有されていない価値を、生活者が理解し、合意できる条件の中で実現へ導かなければならない。要は、生活者が受け入れられる美しさの限界を探り、ぎりぎりまで押し広げて提示したいわけだ。
ここには忍耐がいる。生活者の判断を尊重することが、建築家の美意識を捨てることになってはならない。むしろ、その現実を引き受けながら、なお空間美の到達点を引き上げる。そこにこそ建築家の実力が試されるのだ。
本計画で大きな判断となったのが、準耐火構造の下で登り梁を現すための燃えしろ設計である。
一般的な被覆による対応より費用を要する。限られた予算の住宅で、なぜその選択をする必要があるのか。
私にとっては、先に改修した母屋との関係を保ち、木造架構が自然に空間を形づくる状態を得るために必要な判断だった。特別な構造表現を見せたかったわけではない。余計なものを加えなくても簡素で美しい、その空間の骨格を失いたくなかったのである。何より、先に実現した母屋の建築を、施主自身が支持してくれていた。
しかし、そう判断しただけでは設計は成立しない。費用が増えるという現実が付きまとうからだ。
何に費用をかけるべきかを問い直し、どこを既製品に任せ、何を削ぎ落とすか。材料の調達をどう変え、施工をどのように組み立てればよいか。分離発注によって個々の専門工事を直接結び、設計者が全体を統括することも、そのための選択であった。
結果として、準耐火構造という条件下でありながら、確認した公表事例のうち一般に「ローコスト」と紹介される住宅を相当に下回る費用水準で成立させている。ただし、これは当時の調達・施工条件による成果であり、現在も同じ費用で再現できるという意味ではない。そして当然ながら、その実現には施主自身の理解と決断も必要であった。
費用を抑えることと、美しさを獲得することは、必ずしも同じ方向を向いていない。
一つひとつに正しい答えがあっても、その答えを集めれば美しい建築になるわけではない。
ある部分では、費用の増加を伴う技術をあえて選ぶ。別の部分では、既製品の性能と経済性を積極的に利用する。さらに、施工方法や流通の仕組みにまで踏み込む。それらの判断の総体として、一つの空間美へ収束させていく。
私は、この仕事を経済的な努力や自己犠牲の美談として語りたいのではない。建築家や職人の過大な負担を当然視してもならない。問うているのは、与えられた条件の中で、建築家がどこまで美しさの可能性を押し広げられるか、ということである。
完成したものは、決して物凄い空間ではない。むしろ、何気なく美しい。その普通さの裏側に、幾重もの判断と、その相互関係を解き続ける思考が存在している。
■簡素でありながら美しいこと。そのために、見えないところで考え抜くこと。
完成した造形の特異さで建築家の実力を測るならば、このような仕事の深さは見えてこない。
しかし、生活者の現実を引き受け、その受容の限界まで空間美を追究するという尺度で見たらどうだろう。
そこには、造形の特異さを追究することに劣らない、場合によってはそれ以上の思考と判断が求められる。
私たちは、建築家の実力を何によって測ってきたのだろうか。
私は、建築を評価するもう一つの尺度が、確かにそこに存在していると考えている。
暮らしの中で、建築が育つ
私は以前から、建築が長く残る条件を、生活者が建築に抱く愛着から考えてきた。形や素材、使いやすさ、記憶、人との関係が重なり、時間とともに愛着が生まれるという研究を、設計の判断に読み替えている。
ただし、愛着は設計者が計算によって与えられる感情ではない。建築に出会う人々が、それぞれの意思で関係を育てる余地を整えることが、建築家にできる仕事の一つだと思う。
道後の大広間が将来どのように使われるのか、現時点で答えはない。物置になるだろう、それもよいと考えている。
母の生活に必要な場所を整え、家族の変化を受け止める余地を残す。その空間を見て施主が新たな希望を持ち、顔を知る職人が自発的に応えた。
設計者が用意したのは、そのような出来事の結果ではなく、それらが起こり得る空間と関係の条件だった。
建築の新しさは、特異な形や高価な材料の中にしかないのだろうか。
建築を特別に求めていなかった生活者が、ある空間に出会い、自分の暮らしを少し違う目で見始めること。その関わりが、つくる人や使う人の中に、他者を思う心や美への感受性を育てること。
私は、その小さな変化を諦めずに捉えたい。
そして今、ちいさな芸術が暮らしに根づく、その可能性の光を確かに感じている。